角屋もてなしの文化美術館

先日京都市下京区の島原という地区にある『角屋もてなしの文化美術館』に見学に行ってきました。

江戸時代以来、公許の花街(歌舞音曲を伴う遊宴の町)として発展してきた。寛永18年(1641)に移転騒動があり、それが九州で起きた島原の乱を思わせたところから、一般に「島原」と呼ばれてきたが、正式地名は「西新屋敷」と呼びます。

角屋は、今の料亭にあたる「揚屋」という業種で、その揚屋は江戸時代では民間最大の宴会場だったようです。そこでは遊宴のみならずお茶会や句会なども行われ、文化サロンとしての役割を果たしていました。そのため、揚屋建築は大座敷に面した広庭に必ず茶席を設け、庫裏と同規模の台所を備えている事を特徴としています。

なぜ「揚屋」と呼ばれるかというと、江戸初期から中期までの揚屋は、間口が狭く、奥行きのある小規模建物であったため、一階を台所及び居住部分とし、二階を主たる座敷としました。その二階へお客様を揚げる事から「揚屋」と呼ぶようになりました。やがて江戸中期の宝暦(1751~1763)以降、京都や大阪の揚屋は隣接地を買い増しし、天明4年(1784)には揚屋のほとんどが一階を主たる座敷にして大座敷や広庭を備え、大宴会場へと特化していったようです。

「角屋もてなしの文化美術館」パンフレットより抜粋

正面玄関の通りです。石畳風の道に京町家のような格子造りの外観。

敷地内・建物内、撮影OKだったのでパシャパシャ撮ってきました📷

骨太で重厚な門、かなりの年数経過でも隙間もあまりなくしっかりした造り、建築当時の職人さんの技術の高さや木材の乾燥管理がしっかりしていた事を思わせます。

手刻み紬建築

外壁は赤壁が多いイメージでした。虫籠窓だけ色が変えてあるのが面白いですね。

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この大空間は台所の前にあるので土間・おくどにあたるスペースになると思います。そして、大径・長尺の構造材で組まれていて、瓦屋根の相当な荷重、地震や台風にも耐え、今日までその姿であり続ける素晴らしさに、建築に携わる者として考えさせられる事が多くあります。img_9599

かまども土で出来ていました。ここで作られたご飯は美味しかったでしょうね~

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廊下を歩いていると・・・黄大津磨き壁!!そもそも大津壁とは?

日本壁(大きく分けて、土物壁・漆喰壁・大津壁)の一種であり、主に壁土と石灰を加えたもの。のりは使用しない。壁土の色で黄大津茶大津など名称がつく。

ちなみに、

土物壁・・・壁土と砂と藁スサ、紙スサを主原料にする。水だけで捏ねたものを「水捏ね」、水の代わりにふのりなどで捏ねたものを「のり捏ね」という。「水捏ね」の方が高級な仕事。

漆喰壁・・・石灰とふのり、または角叉のりと麻スサを使用。のりを使わず外壁にも適した「土佐漆喰」もある。

ざっと書くとこんな感じです。また実際に使用する時に詳しく書きたいと思います。

磨きは仕上げの種類で、「磨き」と名称がつくだけあって、仕上げた時には自分の顔が映るくらいには滑らかになるようです。いつか左官屋さんにお願いしたい仕事の内の一つですね☺

上の左の写真は重要文化財である「網代の間」天井の竿に北山杉の半割丸太、天井に網代張りが施されている何とも贅沢な空間です。右の写真、この繊細な組子の障子は「吹寄せ障子」の一種ですね。組子を部分に寄せて組み、規則的なリズムをあえて崩して単調さを避ける、その微妙なバランスが勝負どころとなる障子で、くだけた感じの欲しい数寄屋の空間に使われる事が多い。広い床の間・床脇、骨太な床柱とは対照的にする事により、室内のバランスをより良くしているような気がします。

と、このような感じで見どころ満載の美術館でした!(建築的なことにしか触れてませんでしたが、ちゃんと美術品も展示してありました…!)新撰組にもゆかりがあるようで、古い刀傷も残っていましたし、角屋にまつわるエピソードもあるようです。

一年の内で開館期間があるみたいなので、チェックした上で足を運んでみて下さい☺

それでは、また!!

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